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日本海の海運と港町

更新日:2020年10月7日

秋田藩は上方廻米に日本海の海運を積極的に利用しており、近世初頭、上方市場の中心は京都の伏見や大津方面にあったため、若狭湾の敦賀まで船で運び、馬車と琵琶湖の水運を利用する方法が採られていました。

藩財政を支える最大の商品が土崎湊から出される年貢米でしたが、秋田藩には幕府御用銅の積み出しという特筆すべき海運利用がありました。

阿仁銅山は佐竹氏の開発によって、最初は金銀を産出し、以後銅に中心を移し幕末に至るまで採鉱が続けられています。

秋田藩の産銅は幕府御用銅の4割弱、多いときには5割を超え、長崎輸出銅として、また銭貨鋳造の原料として重要な役割を果たしていました。

この御用銅は銀を含有し、大阪で雇われた廻船が空船で野代に下り、下関を経由して大阪の銀座に廻漕されています。

1765年(明和2年)、盛岡藩領尾去沢鉱山が藩営になって野辺地積み出しに変更されるまでは、その荒銅も米代川を下り野代湊から積み出されていました。

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