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野代から能代へ

更新日:2020年10月7日

野代湊発展の契機は荒銅の移出と、長木沢方面から川下げされてくる杉の良材にありました。

杉材は都市開発の時代にあって商品需要が多く諸国廻船を野代に引きつけました。

1666年(寛文6年)、材木売方の下代と買方の船頭を仲介して売買を成り立たせた仲立役は、移出入商品のすべてを取り扱う特権を認められ、1688年(元禄元年)には問屋と名称を改めています。

その後、元禄7年5月と1704年(宝永元年)4月、2度にわたる大地震で野代地方は壊滅的打撃を受け、地名の変更を願い出るほどでしたが、すでに「のしろ湊」が全国に知れ渡っていることを理由に藩は許さなかったため、それまでの「野代」を「能代」と改めたのでした。

1721年(享保6年)、能代奉行武藤七太夫を1人役に命じて能代に常駐させ、能代支配の強化をねらったのは、まさにその復興期にあたっています。

享保15年、藩は能代村を改めて能代町の呼称を許し、町方の長にあたる町庄屋には久保田町・土崎湊町と同等の格式が与えられました。

その後、能代の町々は5つの組に分けられ、組ごとに町宿老・丁代が選出され町庄屋を補佐する体制が整えられました。

能代奉行は能代町を治めただけでなく、材木山まで支配し藩領_北部の林野行政にも重きをなしています。
米代川の水運と羽州街道を監督する鶴形番所もその支配下におかれていました。

文化年間(1804から18)以降、能代湊の廻船は10艘前後を数え、1831年(天保2年)には問屋が7軒あって米代川流域、大館方面への商圏を広げていました。

当時の災害記録から能代の人口をみると、町方の軒数はおおよそ1,100戸から1,500戸の幅で推移したらしく、ちなみに土崎湊は、参勤交代で上り下りした津軽藩士の道中記によると、家数900軒で、1730年(享保15年)の、藩の調査では町方人口は5,571人とされています。

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