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能代港

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能代港の登場

 能代港の歴史は古く、658年(斉明天皇の4年)にまでさかのぼります。
『日本書記』によれば、この年に『越の国』の国守、阿部比羅夫の第1回の北征が行われ、齶田、渟代を征したといいます。
これが秋田県域の古代地名が歴史上の登場した最初で、比羅夫の北征は翌年と翌々年の3回行われ、齶田、渟代、津軽郡や渡嶋(現北海道といわれています)の蝦夷を従わせました。

 第1回の北征が180艘、第2回は定かではありませんが、第3回が200艘という大船団で来たと記録されています。比羅夫の軍勢を乗せてきた船がどのようなものだったかは記録にありませんが、659年(斉明5年)には第4回の遣唐使が大陸に渡ったということですので、相当に優秀な船が造られていたであろうことが推察できます。当時の能代海岸は、松林などもなく茫漠とした広い砂丘が続いていたものと考えられますが、比羅夫の大船団は、米代川河口のどこかに上陸して蝦夷と接触したものでありましょう。
比羅夫の北征以来113年後の、771年(宝亀2年)、渤海国の国使、壱万福ら325人が船17隻で野代湊に来着したと『続日本紀』に記録されています。
1隻あたり20人前後ですから、100人をこえる遣唐使船に比べてかなり小型ですが、小なりとはいえ17隻の船団を迎えうる野代湊の機能は注目されます。野代には9世紀後半に至っても、なお郡制は施行されていませんが、その時点で雄物川河口の秋田営とともに野代営という公的機関が置かれていました。
いずれも軍事的機能とともに、港津をもつ交通上の要衝という機能を重視しておかれたものと考えられています。

渤海国との航路図
<渤海国との航路図>

1.日本航路
2.能登航路
3.筑紫航路






<遣唐使船想像図>
「吉備大臣入唐絵詞」や
「復元日本大観:船」参照
遣唐使船想像図

 

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