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小さな漁港だったんだよ

更新日:2020年9月25日

江戸時代の湊川口のにぎわい

江戸時代の湊川口(今の新井田川河口)のにぎわい。
砂浜ではイワシの地引き網漁を、川岸の大きな釜では塩を煮ています。

    • 明治30年代の湊川口

      明治30年代の湊川口(今の新井田川河口)
      右に見えるのは明神で、 絵図でいえば砂浜の前に見えます。

    • 大正時代のイワシの地引き網漁

      大正時代のイワシの地引き網漁

「八戸鮫港の真景」と書かれた扇面絵図

「八戸鮫港の真景」と書かれた扇面絵図。
明治30年ごろ階上銀行の記念品として配られたもので、左に館鼻岬、中央に蕪島、右に鮫浦が描かれ、蒸気船と蒸気機関車が走っています。

百人一首で有名な「由良の門」は由良川河口のことで、「門」は「みなと」を意味していました。
あるいは昔は「水之門」と書いて「みなと」と読んでいたそうです。
八戸でもかつては湊川口(今の新井田川河口)が大切な「みなと」の役目をはたしていました。

それよりもさらに昔、八戸では7、8千年も前の縄文時代から海の魚をとって食べていたことがわかっていますから、「みなと」の始まりをいつにするかは難しい問題です。
でもふつうは、江戸時代の寛文4年(1664年)に八戸藩ができたころ、「鮫浦」とよばれていたところが八戸港の始まりといわれています。

はじめは小さな漁港としての役割でしたが、魚類・コンブなど海産物や大豆、イワシ〆粕などを乗せて江戸(今の東京)方面へ運ぶ「北前船」の東廻り航路ができてからは、鮫浦・白銀・湊川口(今の新井田川河口)が、交易船の港として使われるようになりました。
明治27年(1894年)に湊線(今の八戸線)が開通すると、海と陸とをつなぐ物資の輸送がふえ、大正8年(1919年)には鮫漁港の修築工事がおこなわれています。