三陸の歴史

三陸の歴史についてご紹介します。

 先史時代
 縄文時代
 中世
 江戸時代の海運業と物流
 海運業の隆盛に伴う海難事故 
 オランダ船ブレスケン号の山田入港
 近代製鉄の発祥と釜石港  
 岩手の中の三陸マップ

先史時代

 

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虫入り琥珀
(資料提供/久慈琥珀博物館)
 シルル紀中頃の古生態復元図
シルル紀中頃の古生態復元図
(資料提供/大船渡市立博物館)
 四放サンゴの化石
四放サンゴの化石
(資料提供/大船渡市立博物館)

 三陸海岸は、その大半が北上山地の山裾に開け、北部は多くが白亜紀の地層によって形成され、また南部には日本列島最古とも言われる古生代の地層が幅広く残存しています。宮古以北は隆起による台地状のたおやかな山並みが連なり、突端は切り立つ断崖となって海に落ちこんでいます。また、南部は海が複雑な入り江となって陸地深く侵入し、典型的なリアス式海岸を形成しているのが特徴となっています。さらに、沈降した入り江の中や海岸近くに、かつての山の頂が島となって残存している地域も各所に見受けられます。
古生物群については、久慈地方の琥珀や、岩泉町小本の茂師海岸で発見されたモシ竜の化石、宮古層群等で発見されるアンモナイトの化石、大船渡市日頃市町でみつかる三葉虫および四放サンゴを始め、多くの化石からも太古の三陸海岸の様子をうかがい知ることができます。

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縄文時代

 気仙地方で出土した縄文土器
気仙地方で出土した縄文土器
(資料提供/大船渡市立博物館)
 大船渡市鮹の浦貝塚(縄文中期)の貝層断面
大船渡市鮹の浦貝塚(縄文中期)の貝層断面
(資料提供/大船渡市立博物館)
 大船渡のまるた
大船渡のまるた
(資料提供/大船渡市立博物館)

 縄文の昔より三陸海岸に住む人々は、海にその生活の糧を求めてきました。古代の遺跡や数多くの貝塚の中からも、古代人の生活の一端を垣間見ることができます。
国の史跡として指定されている宮古市の崎山貝塚や、気仙地方の蛸の浦貝塚、大槌地方の夏本遺跡をはじめ、縄文時代から中世に至るまで、数多くの遺跡が三陸沿岸の各地に点在しています。また、出土する石器の産地や土器の特色からも、古代における地域間の交流の様子が類推され、当時すでに、生活必需品である塩の流通や物々交換等が盛んに行われていたことが想像できます。
また、貝塚から出土する漁具などをみても、海産物を得るうえで有利な海岸線近くに多くの集落が点在していたことは容易に推察できますが、その痕跡が非常に少ないことと、多くの貝塚が海岸近い高台から発掘されていることから、浸食を受けやすい地形的特徴に加え、周期的に襲来する巨大津波に起因しているものと想像されます。それは、近世の度重なる津波襲来の記録からも推測され、海岸線に形成された集落は、その痕跡さえとどめぬほどの甚大な被害を、幾度となく被ってきたものと思われます。

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中世

 閉伊氏の菩提寺と言われる宮古市の華厳院山門
閉伊氏の菩提寺と言われる宮古市の華厳院山門

 中世の三陸海岸は、都からはるかに遠い辺境の地であったと言っても過言ではありませんでした。中世の昔、この地方を統治していたのは、鎌倉幕府から軍馬の肥育を任命された陸奥守佐々木十郎頼基(後の閉伊十郎源頼基)であったと言われています。閉伊氏の足跡は、船で上陸したと言われる唐桑の尾崎(兼任の乱直後の1190年頃)に始まり、そこから陸路を釜石に至り、さらに山田の田の浜(船越)を経て、当時黒田の庄、或いは閉伊(稗)村と呼ばれた宮古の根城に至っています。釜石の尾崎神社や山田町の荒神社、宮古市の尾崎様(黒崎神社)等は、全て閉伊氏を祭った社であり、閉伊地方随一の名刹と言われる洞沢山華厳院は、閉伊氏の菩提寺として建立されたことが、今日も寺歴に明記されています。
また、その後裔は閉伊地方に広がり、さらには九戸郡野田地方を統治し、津軽地方の黒石も統治したとされいます。
時代を前後して、藤原氏の台頭した時代には、北上山地の豊富な金鉱脈を求めて、多くの山師や金売り吉次を始めとした商人達も闊歩しました。また、悲劇の英雄源義経が、平泉を脱出して北上山地の奥深い山々を遁走して行った伝説が、昨日の事のように語り継がれています。

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江戸時代の海運業と物流

 平成4年、三陸・海の博覧会の折に船大工によって復元建造された350石(約60トン)積みの気仙丸

平成4年、三陸・海の博覧会の折に船大工によって復元建造された350石(約60トン)積みの気仙丸。

 前川善兵衛の復元想像図
前川善兵衛の復元想像図
 
 前川家に代々伝わる、船名入りの額。千石船を数十隻所有していたと言われる  前川家に代々伝わる、船名入りの額。千石船を数十隻所有していたと言われる
前川家に代々伝わる、船名入りの額。千石船を数十隻所有していたと言われる。

 江戸時代は、海運業が大いに発展した時代でもありました。江戸、大阪の二大市場に対する大量の商品輸送を目的に、菱垣、樽廻船を中心とした全国的な海運網が発達していきました。海運業がもっとも発達したのは、18世紀後半の田沼意次の時代になってからのことで、幕府の海外渡航禁止政策による造船上の制約はあったものの、幹線航路における廻船の大型化と耐久性の強化が図られ、五百石積みが標準であった菱垣廻船も、次第に千石積みの大型帆船へと移行して行きました。ちなみに、大槌の前川(吉里吉里)善兵衛は二千石積みの廻船も所有していたといわれます。
南部藩も、南部利直の時代(江戸前期1600年代)に、宮古港を盛岡の外港と定め、沿岸防衛上の拠点として、軍港兼商業港としての機能強化を図りました。利直はまた、藩船の「宮古丸」と「虎丸」を建造しています。
南部藩の外港としての宮古港は、弁財船の来往も盛んで、東廻りの航路が開発されると、三陸海岸の主要港として飛躍的な発展を遂げることになります。
海洋帆走技術も、江戸前期は地乗り航法と呼ばれる地上の目標物を見ながらの航法でしたが、江戸後期の田沼時代になると、大量海上輸送の強化を図る政策上の影響から、海運業と航海技術は大きな発展を遂げ、海図や磁石を利用した沖乗り航法はもとより、風上に向かって帆走する技術や、磁石を使用し星座を観測しながら夜間航行する航法も発達しました。
当時の三陸海岸は、藩の外港である宮古港を中心に栄え、三陸の俵物(ブリ、マグロ、くし貝、干しタラ、塩サケ、棒タラ、のし鮑)の七品をはじめ、外国向け(長崎俵物)の干鮑、煎海鼠、鱶鰭の俵物三品や、鰹節、スルメやコンブが輸出されるなど、千石船が沖合を行き交い、蝦夷地との探検交流や日本海地方との交易も盛んになっていきます。当時の数ある商人の中でも、特筆すべきは高田屋嘉兵衛と並び称された大槌の前川善兵衛をあげることができ、南部藩勢の拡大にも大いに貢献したといわれています。

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海運業の隆盛に伴う海難事故

 三陸の船の海難事故も多かった
三陸の船の海難事故も多かった。

 江戸時代の末期は、航海技術が著しい発展を遂げましたが、その反面、海難事故が多発した時代でもありました。沖乗り航法は、時間距離の短縮を図るうえで画期的な技術革新になりましたが、その一方航路が沖合になることから、自然災害に遭遇する機会も多く、特に北西の季節風が吹き荒れる晩秋から冬季にかけては、幾つもの歴史に残る海難事故が発生しています。大西風と呼ばれた北西の季節風は、いったん吹きはじめると数日間に渡って吹き荒れることが多く、航海技術が格段の進歩を遂げていたとはいえ、水密甲板を持たない当時の帆船にとっては、生死を分ける自然との攻防が繰り返されることになりました。
当時、冬の嵐に遭遇した船は、積み荷を投機し、たらし(錨)を入れて船の流失に耐えたといいますが、それでも耐えきれなくなると、帆柱を切り倒して漂流に入りました。こうして破船し漂流した船は、沖合の海流に乗って千島列島やアリューシャン列島に流れ着き、またあるものは沖縄や南西諸島、さらには遙かフィリッピンや中国等に漂着したといいます。各地に多くの海難事故が記録されていますが、記録にも残らず、破船遭難し、海の藻屑と消えた船舶は夥しく、特に荒天時の漁船の遭難は後を絶ちませんでした。航海技術や船舶の構造上の問題はあったにせよ、漁港や港湾の重要性を痛感する海の近代史が、悲しい歴史となって残されています。
このような海難事故にあって、幸いにも一命を取りとめ、異国で数奇な運命をたどる人々もありました。中でも、日露交渉史上に通訳として登場する南部竹内徳兵衛船多賀丸の後裔や、漂着の地で温かな庇護を受け、その縁で今日の交流が続いている宮古浦善宝丸の事件など、海の悲劇とロマンは語り尽きないものがあります。
下表は、三陸に関わる海難事故の一部を紹介したものです。

【三陸海岸に関わる近世の海難事故】
1744年 1744年11月、宮古等の水主を乗せ、翌年5月に千島列島のオンネコタン島に漂着し日露史上に足跡が残る南部竹内徳兵衛船多賀丸
1750年 中国福建省に漂着した南閉伊郡平田村白浜の神力丸
1787年 1787年(天明7年)から10年間の無人島生活を経て1797年(寛政9年)に八丈島経由で帰還した奥州御城米積大阪北堀江亀次郎船(「鳥島物語」のモデル)
1793年 カムチャッカ南部に漂着した石巻の若宮丸
1805年 八丈島に漂着した船越村田の浜久次郎船
1820年 パラオ島に漂着した船越浦黒沢屋六之助船神社丸
1827年 ルソン島に漂着した八戸石橋徳右衛門船融勢丸
1845年 アメリカの捕鯨船に救助された釜石浦佐野屋与平治船千寿丸
1858年 当時の琉球宮古諸島の多良間島に漂着した宮古浦福田屋栄作船善宝丸

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オランダ船ブレスケン号の山田入港

 ブレスケンス号の模型船
ブレスケンス号の模型船
 オランダ船入津の図
オランダ船入津の図
(資料提供/盛岡中央公民館)

 オランダ船「ブレスケンス号」の山田湾への入港と捕縛事件は、徳川幕府が鎖国政策に入って間もない西暦1643年の事でした。ブレスケンス号は姉妹船カ ストリクム号とともに、金銀諸島を求め、交易の為の多くの商品を積んで、日本近海を探検航行していましたが、八丈島沖で暴風雨に遭遇し、その後それぞれに 日本の沿岸を探検航行することになります。
6月10日、三陸沿岸を北上していたブレスケンス号は、狭く切り立った入り江から美しい山田湾(オランダの人々の眼には、パラダイスのように映ったとい う)へと入港します。その五年前に幕府は鎖国政策に踏み出しておりましたが、北国の漁村にはまだその政策の内容は浸透しておらず、ブレスケンス号の人々は 村人達の温かな歓迎を受けます。
ブレスケンス号は新鮮な水を積んで再び北方海域へと船出しますが、千島列島の厳しい風土に打ちひしがれ、7月28日温かな住民との交流を期待しながら、 再びパラダイスのような山田湾に入港します。しかし、この時事情は一変しており、以前の不法入港に不快感を抱いていた藩主重直は、不法入国したオランダ人 の捕縛を申し付けることになります。この事件を機に、日蘭の外交交渉が起こりますが、この事件の舞台となった山田湾には通称オランダ島と呼ばれる小島があ ります。また、山田町とオランダは、1993年にブレスケンス号の入港350周年を記念し、民間の温かな国際交流の歴史に、再び灯をともすことになりま す。山田町とオランダとの交流は、友情の輪となって広がり、芸術をはじめ多くの分野で大きな花を開いています。

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近代製鉄の発祥と釜石港

 近代製鉄の父、大島高任(たかとう)
近代製鉄の父、大島高任(たかとう)
 国の史跡に指定されている
国の史跡に指定されている
釜石の「橋野高炉跡」
 昭和45年の釜石。この年、八幡製鉄と富士製鉄が合併、新日本製鉄となる
昭和45年の釜石。この年、八幡製鉄と富士製鉄が合併、新日本製鉄となる。

 中世から江戸時代にかけての釜石は、東北の小さな一漁村にすぎませんでした。その一漁村が、東北の上海と呼ばれ、日本屈指の工業都市として飛躍的な発展を遂げたのは、山田町豊間根出身の薬草学者阿部友之進によって、1727年に仙人峠付近で大量の磁鉄鉱が発見され、さらに1857年に南部藩士大島高任が大橋の山間に国内初の洋式高炉を建設したことに始まります。
その後、橋野や栗林、遠野の佐比内等に10座の洋式高炉が建設され、木炭を用いた製鉄がはじまります。明治7年には官営釜石製鉄所が発足し、さらに明治13年には釜石と大橋の間に日本で3番目の鉄道が敷設され、海辺の寒村がまさに産業革命でも起きたような賑わいを見せ始めます。
釜石港は、鉄道の敷設等によって、内陸との連絡がつき重要性が高まりました。明治14年、釜石製鉄所専用桟橋を建設、さらに大正7年に南北2基の桟橋を増設、昭和7年には臨港鉄道を敷き、大型船をふ頭に横付けできるようになりました。昭和9年、釜石港は東北初の開港場となり、日本の昭和史上に残る工業港としての輝かしい足跡を刻むことになります。
官営釜石製鉄所は、高炉のトラブル等によって民間に払い下げられ、産業 構造の変遷によって盛衰を繰り返すことになりますが、第二次世界大戦末期の昭和20年7月14日には、主要軍需工業都市として連合軍による、日本本土初の艦砲射撃の標的となりました。ともあれ近代製鉄発祥の地釜石は、日本屈指の工業都市として海に開け、その歴史は日本の近代史上に燦然と輝いています。

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岩手の中の三陸マップ

岩手の中の三陸マップ
(資料提供/伊能忠敬記念館)

 享和元年(1801年)、伊能忠敬が三陸沿岸を実地測量したものを基に作成された地図。
この地図には気仙郡唐丹村(現釜石市唐丹町)に始まり、平田村、嬉石浜、釜石村、両石村、三貫島、片岸村、大槌村、吉里吉里村、船越村、織笠村、飯岡村、山田村、大沢浜、ブナ峠、豊間根村、重茂村、津軽石村、金ヶ浜、高浜、小袖浦、磯鶏村、宮古、鍬ヶ崎、崎山村、田老村(現宮古市田老)など沿岸の村々が明記されている。

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