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北前船のころ

更新日:2020年10月7日

その後、土崎湊は、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、室町時代の「廻船式目」では三津七湊の一つに数えられ、1602年(慶長7年)に佐竹義宣候が水戸より移封されてからは、佐竹20万石の台所を支える日本海北部の要港として栄えました。

さらに、1672年(寛文12年)に河村瑞賢によって日本海から瀬戸内を通って大阪に至る「西廻り航路」が開設されると、北前船が往来し、海運の隆盛とともに秋田港の繁栄は江戸後期から明治まで続きました。
物流は経済・文化の交流も促しました。

現在、秋田市土崎地区に多くみられる越後、越前、越中、加賀、丹波、三国など国名、地名の付く姓は、当時の交易の範囲を物語るものと言えるでしょう。

「北前船」の語源はいろいろありますが、日本海方面からやってくる廻船を瀬戸内の人々が呼んだことから、という説が有力です。「北前船」は近世前期頃までは「北国船」というドングリ船と呼ばれた船形でありましたが、近世後期になると弁才船型で日本海航海に適した船形に変わるものの、名称としては「北前船」とよばれたようです。

土崎湊は室町時代の「廻船式目」(法律)によって三津七湊の一つに数えられる北国廻船の重要な湊でした。土崎湊は安東氏の時代から、軍船大安宅船や伏見城の用材として秋田杉を積み出す湊でしたが、湊としての重要性を増したのは佐竹候が国替えで秋田県のほぼ全域を領土としてからです。

河村瑞軒によって瀬戸内を通って大阪に至る「西廻り航路」が 1672年(寛文12年)、開設されると、日本海側の北国航路が盛んとなります。

雄物川流域の農林産物が川舟で土崎湊へ川下げされ、湊からは北前船で大阪や各地に積み出されました。
土崎から出る荷物は「沖出物」と呼ばれ、米・大豆・小豆・麦・そば・菜種などの農産物や秋田杉、海産物や鉱産物でした。

これに対して入荷は地元で自給できない木綿・古着・繰綿や、塩・砂糖・茶、日用雑貨の紙・畳表・鉄器などで、「沖入物」と呼ばれ、湊から川舟で内陸奥地へと運ばれました。

北前船による海運は、経済が活発化する江戸後期から明治まで続き、鉄道の開通によって急速に衰退しました。

記録によると、1849年(嘉永2年)の土崎湊の持船は900石積1艘・600石積1艘・250石積1艘・200石積4艘・100石積4艘で、川舟は80艘であったとされています。

北前船
「北前船」の大きさは、千石船で長さ=約28メートル、幅=約8メートル、高さ=約2.5メートル位でした。

  • 三津=安濃津(三重県津市)
    博多津(福岡市)
    堺津(大阪府)
  • 七湊=越前三国湊(福井県三国町)
    加賀本吉湊(石川県美川町)
    能登輪島湊(石川県輪島市)
    越中岩瀬湊(富山市)
    越後今町湊(新潟直江津)
    出羽秋田湊(土崎湊)
    津軽十三湊(青森県津軽郡)
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