海運業の隆盛に伴う海難事故
 三陸の船の海難事故も多かった。
江戸時代の末期は、航海技術が著しい発展を遂げましたが、その反面、海難事故が多発した時代でもありました。沖乗り航法は、時間距離の短縮を図るうえで画期的な技術革新になりましたが、その一方航路が沖合になることから、自然災害に遭遇する機会も多く、特に北西の季節風が吹き荒れる晩秋から冬季にかけては、幾つもの歴史に残る海難事故が発生しています。大西風と呼ばれた北西の季節風は、いったん吹きはじめると数日間に渡って吹き荒れることが多く、航海技術が格段の進歩を遂げていたとはいえ、水密甲板を持たない当時の帆船にとっては、生死を分ける自然との攻防が繰り返されることになりました。 当時、冬の嵐に遭遇した船は、積み荷を投機し、たらし(錨)を入れて船の流失に耐えたといいますが、それでも耐えきれなくなると、帆柱を切り倒して漂流に入りました。こうして破船し漂流した船は、沖合の海流に乗って千島列島やアリューシャン列島に流れ着き、またあるものは沖縄や南西諸島、さらには遙かフィリピンや中国等に漂着したといいます。各地に多くの海難事故が記録されていますが、記録にも残らず、破船遭難し、海の藻屑と消えた船舶は夥しく、特に荒天時の漁船の遭難は後を絶ちませんでした。航海技術や船舶の構造上の問題はあったにせよ、漁港や港湾の重要性を痛感する海の近代史が、悲しい歴史となって残されています。 このような海難事故にあって、幸いにも一命を取りとめ、異国で数奇な運命をたどる人々もありました。中でも、日露交渉史上に通訳として登場する南部竹内徳兵衛船多賀丸の後裔や、漂着の地で温かな庇護を受け、その縁で今日の交流が続いている宮古浦善宝丸の事件など、海の悲劇とロマンは語り尽きないものがあります。 下表は、三陸に関わる海難事故の一部を紹介したものです。
【三陸海岸に関わる近世の海難事故】 |
1744年 |
1744年11月、宮古等の水主を乗せ、翌年5月に千島列島のオンネコタン島に漂着し日露史上に足跡が残る南部竹内徳兵衛船多賀丸 |
1750年 |
中国福建省に漂着した南閉伊郡平田村白浜の神力丸 |
1787年 |
1787年(天明7年)から10年間の無人島生活を経て1797年(寛政9年)に八丈島経由で帰還した奥州御城米積大阪北堀江亀次郎船(「鳥島物語」のモデル) |
1793年 |
カムチャッカ南部に漂着した石巻の若宮丸 |
1805年 |
八丈島に漂着した船越村田の浜久次郎船 |
1820年 |
パラオ島に漂着した船越浦黒沢屋六之助船神社丸 |
1827年 |
ルソン島に漂着した八戸石橋徳右衛門船融勢丸 |
1845年 |
アメリカの捕鯨船に救助された釜石浦佐野屋与平治船千寿丸 |
1858年 |
当時の琉球宮古諸島の多良間島に漂着した宮古浦福田屋栄作船善宝丸 |
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