メニューにジャンプコンテンツにジャンプ

トップページ > 宮城県の港湾と空港 > 「仙台塩釜港の今と、昔と」

「仙台塩釜港の今と、昔と」

仙台塩釜港の前身となる塩釜港の歴史をさかのぼると、奈良時代(710年から)に陸奥国の国府・多賀城の外港であったところまで行き着きます。

松島の島々に波風が遮られ、枢要な町に近いこの地は、典型的な天然の良港であり、古代より人流・物流の要であるとともに、文化的な意味でもまた、非常に高い位置づけを持っていました。

伊勢物語のイメージ図

「塩竈に いつか来にけむ 朝なぎに釣する舟は ここによらなむ」
(伊勢物語 第八十一段)

源氏物語の主人公、光源氏のモデルの一人とも言われる源融(みなもとのとおる)は、塩竈の地を模して自らの屋敷「六条河原院」を造らせ、その素晴らしさが評判となったそうですが、その様子を描いたものの一つが、先に挙げた伊勢物語の和歌です。

素晴らしく風情のある融の屋敷を塩竈に喩え、京にいるはずの自分はいつの間に塩竈に来ていたのだろうかと歌っています。

塩竈の名は和歌の歌枕となり、塩竈に関連する和歌の数は、300を超えるとも言われており、奈良、平安の昔からこの地が都の貴族、文人たちから美しいものの象徴のひとつとして見られていたことを示しています。

江戸期には、仙台藩による塩釜港の整備が進み、新たな国府となった仙台の玄関口として優遇政策がとられ、伊達六十万石の玄関口として栄えることとなりました。

また、後に仙台塩釜港の港区の一つとなる石巻港も、仙台藩の命を受けた川村孫兵衛の手により物流の拠点としての整備が進められ、北上川上流域からの米穀の積み出し港として繁栄したものです。

このような長きにわたる歴史を積み重ねてきた塩釜港は、仙台から石巻までを含む仙台塩釜港として引き継がれ、各港区の特色を活かしながら地域の経済と生活を支える、東北地方唯一の国際拠点港湾として現在も発展し続けています。

源 融(みなもとのとおる)

百人一首の札

嵯峨天皇(第52代天皇、在位809年から823年)の第12子。
嵯峨源氏融流初代。

源氏物語の主人公、「光源氏」のモデルとも言われる(光源氏の邸宅の名前は六条院)。

小倉百人一首では河原左大臣(加茂川の近くに邸=六条河原院を建てた左大臣)の名前で収録

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに (古今和歌集)

陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ/現在の福島県信夫郡)で作られるという「しのぶもじ摺り」という乱れ染めの布の文様のように、わたしの心も乱れてしまったのです。だれのせいなのでしょうね。わたしはだれにも心を乱されたくはなかったのに。

陸奥・出羽の按察使であったことが縁となり、上記のように陸奥にちなんだ歌を詠み、また、京の自分の邸宅に、塩竈の風景を模した庭園を造らせ、京の風流人の評判となった。

その邸宅の池に、尼崎から毎月30石=約5.5キロリットルの海水を運ばせ、魚を飼い、塩竈と同じように藻塩焼きを行っていた。

著名な子孫

渡辺 綱:源頼光四天王筆頭。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。金太郎(坂田金時)の同僚。

松田聖子:融の子孫は武家として身を立てる者もあり、そのうちの一つに蒲地氏がある。蒲地法子。