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みなとの移りかわり(江戸時代・明治時代から現在)

更新日:2020年10月20日

江戸時代

江戸時代の仙台領には、石巻、荒浜、寒風沢の3港がありました。

石巻は1626年北上川付け替えでできた河口港、荒浜は東廻り航路の起点とした阿武隈川の河口港、寒風沢は仙台藩の外港でした。

石巻港は、古くは伊寺水門(いしみなと)とよばれる、北上川の河口に開けた小さな港町でした。今から約380年前の元和9年(1623年)から、伊達政宗の命を受けた川村孫兵衛(かわむらまごべえ)により、北上川の掘削が行われて以来、北上川の水運を利用して、仙台、岩手県水沢、遠くは江戸に至る米穀の積み出し地として繁栄しました。

帆船時代には石巻が中心港でしたが、幕末に汽船が運行されると浅い河口港は衰え、外洋に面している寒風沢が重要視されるようになりました。

塩釜港区は、藩政時代には藩主伊達政宗により港の整備が進み、四代綱村の特別保護策のもとに繁栄をみました。

明治から現在

石巻港は、江戸時代末期から明治初期にかけて、北上川上流部から流れ下る土砂の堆積により、河口港としての機能が低下したため、北上川低水工事を行い一時船運の便が良くなりましたが、明治20年の東北本線の開通により衰退の一途をたどりました。

明治に入り、明治政府は東北の振興を図るため東北最大の国家プロジェクトとして、当時の代表的貿易港であった長崎・横浜港 に先んじて(横浜に先立つこと11年)、その拠点として野蒜築港が計画されました。

その頃の野蒜は鳴瀬川河口の寒村でしたが、内務卿・大久保利通の提唱によって明治11年(1878年)河口に内港と都市用地を埋め立てて造成、北上川石巻と松島湾東名との間を運河で結び、海岸線4キロメートルにわたる岸壁を構築して外港とし、外港停泊地との連絡を図るという壮大な計画でオランダ人技師セイ・ファン・ドールンが設計、着工されました。

工事が進む1884年(明治17年)、台風によって突堤は一瞬のうちに破壊され、船舶の入港が不可能となり、当時68万円の 大金を投じて設営した日本初の洋式築港も2年で廃港となりました。

内務卿大久保利通が野蒜に外港を造る予算を決済直後暗殺されてしまいました。野蒜築港失敗後、女川、松島に築港建設を検討されましたが、明治30年代に入りようやく塩釜築港が推進されることとなります。

野蒜築港は、場所が河口で外湾に直面しており、当時の技術では浚渫が困難なこと、中心都市仙台に遠く、背後地に見るべき産業もなく、河川水運だけにとらわれ、陸上交通路の連絡が不十分。要するに技術的、経済的に地点選定の誤りがありました。しかもこの失敗は、政府が技術的・財政的に東北への大規模な港湾の建設を断念したという、以降の東北開発の近代化に 大きな陰影を投じた結果となりました。

仙台塩釜港塩釜港区は、明治維新後、特別保護策の廃止により衰微しましたが、明治15年修築工事が開始され、同43年の第2種重要港湾の指定、昭和9年の開港指定等を経て、今日の港の基礎が形成され港勢も急速に発展しました。

伊達政宗

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。奥州(今の東北地方)を制覇し、仙台藩の基礎を固めた(仙台藩祖)。
伊達政宗の画像

川村孫兵衛

川村孫兵衛の画像

大久保利通

大久保利通の画像

セイ・ファン・ドールン

セイ・ファン・ドールンの画像