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能代港の確立

更新日:2020年10月7日

中世の秋田では、檜山安東氏と湊安東氏がそれぞれ檜山城(能代市)と湊城(秋田市土崎)を拠点にして、前者は米代川左右岸の檜山郡、後者は雄物川下流から馬場目川にかけて広がる秋田郡を地盤に勢力を分け合っていました。

安東氏(後に秋田氏を名のる)が海運をてこに活発な動きをしたことは、秋田市高清水丘陵に創建された秋田城遺跡の発掘成果が実証していますが、1598年(天正17年)に秋田地方を統一した秋田実季の時代になると野代には、代官の外、各種の役職もおかれるようになっていました。

さらに、畿内には杉板、丈木、筒木、米、大豆などが運ばれ、畿内からは非自給的な商品が積まれてきており、越前の敦賀、若狭の小浜の両港を起点とする北国海運は、この頃はかなり定期的なものになっていました。

こうして湊も急速に拓けてくる中で、出羽地方にも豊臣秀吉の力がしだいにおよぶようになってきており、1593年(文禄2年)に秀吉から命を受けた秋田実季が大安宅船1隻分の材料を送った記録があります。

翌年は淀船30艘分の船材、1595年(文禄4年)には伏見城作事板800間(1間は7尺から12尺・幅1尺6寸・厚さ5から6寸の板4枚)を送り出し、1596年(慶長元年)に580間、2年、3年、4年と合計2,900間を運上しています。

このように木材の豊富な野代で船を造ることもはじまり、町並みはますます大きくにぎやかに発展していきました。

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