人と物資の移動
更新日:2020年10月7日
人の往来は、徒歩・籠・馬により駅を継いで街道を利用するのが一般的でしたが、米代川を下る川船の利用もありました。
「朝大館を発すれば、夕には能代に到着す。客は舟中に横臥し、或いは酒肴を載せて、両岸の風景を翫ひつゝ、舟遊を兼ねての旅行を為す」と『大館沿革史』にあります。
舟運は安全、迅速かつ大量に物資の輸送ができました。
米代川舟運のため河口港能代から二ツ井・荷上場・鷹巣・大館・扇田・十二所に河港が立地し、舟は隣国南部藩領鹿角の花輪までのぼり、そのために十二所に川番所が置かれていました。
内陸部の産物である米や銅鉱石は川船で、秋田杉は製材所のある能代へ丸太材で筏を組んで米代川を下り、帰り舟には食料品・日用雑貨を積んで戻っていました。
大館船場にもたらされた物資を知る資料はありませんが、他の川港に運ばれた物品や市日での商品から魚・塩・醤油・干物・綿・砂糖・呉服・荒物・茶・太物・細物・紙などが主な物品で、明治の鉱山活況期に入ると石炭・コークス・セメント樽などが運ばれていました。また、郵便船も往来していました。
川港のある町では定期市が開かれ近郷近在の人々で賑わい、かつて大館船場には、舟宿・茶店・荷小屋が軒を並べ、鹿角の硫黄鉱山から川下げしてきた硫黄を大船に積み替えるための硫黄小屋が建ち並んでいたといいます。
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