幻の野蒜築港
更新日:2020年10月20日
明治11年計画スタート
日本ではじめての洋式近代港湾
現在の野蒜築港跡
明治政府は、欧米諸国の技術を導入して国家の近代化を強力に推し進めました。国際交流の窓口として、また国土開発の基盤として重要な港湾の近代化は、野蒜港からスタートしました。
港と運河のネットワーク
飛行機のない時代に唯一の国際交流の窓口であった港湾。明治政府が近代港湾として最初に着手したのが野蒜築港でした。内務卿大久保利通に命じられたオランダ人技師ファン・ドールンは、鳴瀬川の河口に貿易港をつくり、運河や河川を整備して、県内の主要都市並びに、岩手・福島と結ぶ水運ネットワーク構想をまとめました。
水運ネットワーク- 野蒜港ー北上運河ー北上川ー岩手県
- 野蒜港ー東名運河ー松島湾ー貞山運河ー阿武隈川ー福島県
東北最大の国家プロジェクト
当時の代表的貿易港であった長崎・横浜港に先んじて、国家プロジェクトとしての野蒜築港が明治11年にスタートしました。
難工事の末、4年後に内港地区が完成、引き続き国際港を目指して外港地区への展開が期待されていた矢先に、台風が直撃しました。
この災害を契機に、政府は、技術的・財政的に東北への大規模な港湾の建設を断念しました。
内港地区の主な事業

- 東突堤(191メートル)、西突堤(236メートル)の建設
- 北上運河の開削(延長11.8キロメートル)及び閘門の設置
- 東名運河の開削(延長3.3キロメートル)
- 新鳴瀬川の開削及び潜堤設置による鳴瀬川の切替
- 内港泊地の浚渫(3ヘクタール、水深4.2メートル)
- 鳴瀬川のデルタ埋立による新市街地の造成(34.6ヘクタール)