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秋田港

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秋田港は古代からの港?

 秋田港の歴史は古く、658年(斉明天皇紀4年)に阿部比羅夫が越国から180艘の水軍を率いて蝦夷地に遠征し、齶田の浦に着いたことが「日本書紀」に記されており、この齶田の浦が現在の秋田市周辺と考えられています。

 当時は国家として統一される前で、東北地方には『蝦夷』と呼ばれた人々が住んでいましたが、どの様な社会を形づくっていたのかは分かっておりません。

 大水軍を見ておどろいた齶田地方の蝦夷の長である「恩荷」は、「官軍にはむかうために弓矢を持っているのではありません・・・朝廷にお仕えします。」と、あらそわずに従うことを誓いました。

 比羅夫もこれを受け入れ、恩荷に「小乙上」の位を授け、さらに北上して渟代(能代)・津軽を征服して三郡を置き郡領を任命して帰ります。
 この大遠征は「大和朝廷」が東北地方の民族「蝦夷」を支配するための侵略戦争でした。しかし、蝦夷を支配することは難しく、たびたび反乱が起こり、その都度、遠征が行われました。

 東北地方各地に残る「征夷大将軍 坂上田村麻呂」を祀った神社や、秋田市の「将軍野」「幕洗川」「太刀洗川」などの地名が、古代の歴史(伝説?)を物語っております。
 708年(和銅元年)に山形県の庄内から由利までの地域が越国の出羽郡となり、712年(和銅5年)には「出羽国」がおかれます。「蝦夷」をしずめるために733年(天平5年)には『出羽柵』が秋田の高清水岡に設置され、東北日本海側の最前線基地となります。この「出羽柵」が後の秋田城です。また、後には雄物川上流に「雄勝城」が設置されております。(羽後町西馬音内にあったとの説があります。)

 比羅夫の軍船がどんな船であったか分かりませんが、宮崎県西都原古墳から出土した舟形埴輪からも、古墳時代にすでに相当に大きな船が造られていたことが推定されます。
 特に、607年(推古15年)には遣隋使が派遣されており、630年(舒明2年)には遣唐使船が出航しております。
 当初の頃の渡海は、壱岐・対馬を経て朝鮮半島から沿岸にそって中国に至る航路(北路)がとられたようですが、朝鮮新羅国との関係が悪化して同航路は航行できなくなり、直接中国沿岸に至る航路(南路)をとったようです。従って船形も大型な船となりますが、磁針はもとより気象海象の知識もなく航法も幼稚な時代ですので、たびたび難破にみまわれ正に命がけの渡航であったようです。

 

秋田港の取扱貨物など 秋田港の歴史