ホーム > 秋田の港 > 能代港の概要 > 河口港から掘込港湾へ

能代港

秋田の港 船川港 秋田港 能代港

河口港から掘込港湾へ

 1873年(明治6年)調査の県内11港湾の現況が記録されている秋田沿革史大成によると、「土崎港は水深4.5m、大型船130隻停泊できる」とあり、「能代港は水深2~2.5m、大型船およそ100隻停泊できる」となっています。また、出入り船舶は3月の解氷期から11月下旬の結氷期に限られ、1887年(明治20年)には、外洋航行船舶は670隻、川舟は上下あわせて330隻、1日平均到着隻数は10隻とあるなど、能代港はなお県内第二の港として昔のめんつは保たれていました。

明治時代の能代港風景
<明治時代の能代港風景>

 しかし、河口の土砂堆積は年々著しく、また、明治20年代頃から日本の船舶は汽船時代となりました。そのため、河口港として発展してきた能代港には大型船舶は入港できず、船は3~4kmも沖合に投錨し、貨物の陸揚げや積み込みは、艀に頼るという状態になりました。
そのため、地元民の河口改修に寄せる願いは次第に強まり、町では再三の陳情と請願を繰り返していましたが、一部の改修に着手されたものの果たされず、その後軍事優先の風潮もあって、船川、土崎の築港が脚光を浴び能代港その他の改修は長く顧みられることはありませんでした。
そんな中でも能代港へは大量の木材が輸入され、能代港の利用がピークにさしかかった1922年(大正11年)に、内務省告示第131号によって能代港は『指定港湾』となりました。
また、1953年(昭和28年)には、まだ能代港の将来の青写真も固まっていない時期でしたが、『港湾法』の制定により地方港湾の指定を受け、港湾管理者が秋田県となりました。
能代港が、本格的に整備されるようになったのは、1965年(昭和40年)からの第2次港湾整備5カ年計画(昭和40~44年度)からで、近い将来3千トン級に拡張できる前提で1千トン級改修計画に着手されました。
この計画はさらに改訂され、航路を掘り込み米代川と港を分離する計画がたてられ3千トン級へ、さらに外国から木材を直接輸入できるよう、5千トン級への規模拡大が決まりました。
そして、1974年(昭和49年)8月1日、5千トン級の船舶の入港が可能となり、植物防疫法による指定港並びに関税法による開港指定を受け開港され、8月4日に第1船(ケメロボ号3,546tソ連)が入港し、外材が35年ぶりに輸入されました。

第1船入港の様子
<第1船入港の様子>

 また、開港に先立つ1970年(昭和45年)2月、産業振興審議会において、大森地区に工業用地を造成し、15,000トン岸壁の築造が決議され、翌年工業用地の埋立に着手、1975年(昭和50年)から岸壁工事に着工、1979年(昭和54年)に完成し、木材工業団地へは市内製材工場13社が移転立地しました。
この工業団地の造成に当たり、最大の焦点になったのが『風の松原』でした。

 

取扱貨物量 能代港の歴史