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能代港

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風の松原

 砂丘が続く海岸沿いの能代一帯の街は、江戸時代の半ばまで、日本海から吹き付ける強い季節風が砂を飛ばし、民家が砂に埋もれてしまったり、土が飛ばされ海水が浸水するなどの災害に悩まされていました。1670年頃、医師であった長尾祐達は、この状態で町の発展はないと考え、飛砂防止について提唱し実践しましたが、志半ばで事故により非業の死を遂げてしまいました。
 1712年から、祐達の熱意を引き継いだ船問屋渡辺太郎右エ門は自費で清助町から下浜一帯にかけて、その翌年からは庄屋の村井久右エ門も参加して植林が続けられました。その後、渡辺家では1800年まで三代にわたり、村井家では1764年まで30余万本の松を莫大な費用をかけて植えたといわれています。

 さらに、1797年~1826年まで秋田藩士栗田定之丞が、材取立役として海岸一帯に植樹。その後を受けて秋田藩木山方、賀藤景林は1822年(文政5年)から10数年かけて76万本の松苗を植えつづけ、能代町民を飛砂被害から救ったといわれています。このほか、砂防造林には一介の武士や多くの町民らも力を尽くしており、時を重ねて1本1本植えられたひ弱な黒松は、今では大樹に成長し、幅1km、総延長14kmにもおよび、その数700万本という日本最大級の松原となっています。

 当初の臨海工業団地造成計画では、風の松原の3分に1に当たる約100ヘクタールを伐採するというものでした。
 しかし、公害問題がクローズアップされた時代背景もあり、厳しい季節風と戦いながら、市民の生命と財産を飛砂の脅威から守ってきた歴史がある『風の松原』には、市民の愛着を断ちがたいものがあり、緑の保全と開発の狭間で多くの専門家による調査の結果、火災などの防災上の観点から、工業団地と松原の間に防火水路を設けることと、防風ネットの設置を条件に、最小限の伐採はやむを得ないとの結論を得て、約16ヘクタール、全体の5%程度に縮小して伐採することになりました。

 

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