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> 応急方法だった沈船防波堤
食料の海外依存率と八戸港
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昭和4年に八戸港となる
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環境・安全港湾を目指して
硫化鉱を積み出していた鮫の3千トン岸壁
沈船防波堤(昭和42年に撤去)
今は白銀西防波堤になっていますが、昭和25年(1950年)3月、ここに1万トン級大型オイルタンカー3隻がならんで沈められ、延長450メートルの防波堤が完成しました。めずらしい沈船防波堤です。
そのころの日本は第二次世界大戦が終わって、食糧が不足し、食糧生産のため化学肥料を増産しなければなりませんでした。その原料として岩手県松尾鉱山の硫化鉱を積み出すため、鮫の3千トン岸壁を利用することになりましたが、当時の北防波堤(今の白銀北防波堤)だけでは外洋の波浪対策が不十分でした。そこで、外海に開放されている西北部に早急に防波堤を築くため、船を沈める応急方法がとられたのです。
当時、米国進駐軍に接収されていた富島丸・大杉丸・東城丸の3隻をもらいうけ、砂地盤上に直接沈設しました。そして、富島丸の船首部には12.5トン型の消波ブロック約1200個がすえつけられましたが、これが八戸港におけるはじめてのテトラポッドでした。
沈船防波堤の平面図・断面図